世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブス

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日本全国の宗像神社・関連スポット

    件名 勝浦嶽神社(桂岳神社)(かつうらだけじんじゃ)
    種別 神社
    所在地 福津市勝浦2807付近
    概要 往古三韓ヲ征伐シ玉ヒ、凱旋ノ時、此山ニ登リ軍ニ勝浦ト詔リ玉シヨリ、依テ村名ヲ勝浦、山ヲ勝浦岳ト唱フト云。宗像75社ノ其1ナリ。末社記ニ高宮下符ノ社25ノ所内勝浦明神トアルハ、此社ノ事ナリ。例祭ハ11月2日ナリシ由、同書ニ見ヘタリ。往古山下ニ鎮座ナリシカ、近年山ノ中途ニ遷シ、鎮座ス。
    [宗像神社史]御縁起に108社の1つとして、「勝浦明神」と、高宮下符のうちに、「左11番加津浦明神社」
    と見え、正平年中行事に、75社の1つとして上高宮下符社のうちに「勝浦明神」と、高宮下符神事の條に「勝浦明神(11月3日祭之)と見え、吉野期神事目録には「勝浦明神13日」として、9月の御9日祭がこの日に行はれるとしている。延宝末社帳には「加津浦明神伊賀津臣命」とも、「勝浦明神建飯勝命」とも両様に載せている。
    [筑前続風土記附録]勝浦村
    勝浦嶽神社(神殿1間半1間、石鳥居1基。)桂嶽にあり。神功皇后、天満天神、歡喜天を祭る。古へ神功皇后異国より歸らせ給ふ時、此浦に上り給ひしより、村の名とせると、里人民の説ありと、本篇に見えたり。後に此所に社を建てまつれるなるへし。
    [筑前続風土記拾遺]勝浦嶽大明神
    勝浦嶽の麓に在。所祭神功皇后也。近年相殿に天満宮・歡喜天をも祭る。往昔皇后新羅に勝て、還幸あり。此山に上らせ給ふ。故に名とすといふ。宗像75社の1なり。同末社記高宮下符社25所の内に、勝浦明神とある。此社の事なり。祭日11月3日なりしよしも、同書に見えたり。宝暦の項、社内に惣知院といふ庵を建立せしより、此社は今庵の鎮守社の如し。温古の士は痛惜しすへきことにこそ。[太宰管内志]勝浦神社(宗像正平末社記)に高宮下符社25所勝浦神社とあり。「文安縁起」に勝浦明神あり。小神62社の内なり。又宮司郷勝宮大明神あり。もし是にはあらぬか。「正平記」に勝浦明神11月3日祭之とあり。(75所の内なり。)当郡桂村あり。此処に在る神なるか。
    [福岡県地理全誌]勝浦岳神社
    後世同殿ニ歡喜天ヲ祭リ、宝暦8年戌寅、村民忍照ト云者、又者ノ側ニ惣智院ト云庵ヲ建シヨリ、本社ハ彼院ノ鎮守ニ如ク成行キシカ、明治元年戌辰ニ至テ、舊ニ復スル事ヲ得タリ。
    [宗像郡史]「宗像遺徳集」忍照和尚師は永島半次兵衛と称し、勝浦村の産なり。祖先は宗像家累代の重臣、同家滅亡後、数世を圣て、農に帰し、爾後永島與次兵衛勝房酒造の業を營み、甘往屋と号し、家運幣管に趣けり。享保年間の凶作時、家産を傾けて救助す。「本未互助の法」を説ける。のち身は桂嶽に一寺を建立し佛内に入り忍照と号す。宗像神社の神宝「阿弥陀経石一保存費として、深田に田地を求め寄贈するなどの善行を藩主の聞く所となり咸状を受くこと数度と云う名僧で伝説多き人物也。
    現況=玄海町より国道495号線で津屋崎勝浦に入ると桂区信号より県道田島・福間線を左折すると名児山峠を越えて玄海町田島宿の谷に出る。この峠の勝浦側入り口の処に小さな「桂岳神社」の標示板がある。この小道を50メートル程入った畑の中に大楠の枯巨木があり、美しい生垣の中に〇柱が建っている。その正面に石祠があり10坪程の境内は皇砂利が入れてある。この石祠が桂岳神社である。周辺は段畑になっているが、往古の神社境内の様子がうかゞえる。又、一庵があったとも想像出来る。少し髙台の山麓まで上ると目下に勝浦の家々と玄界灘が望まれ、この地で神功皇后の勝浦と呼ばれた意味が良く知れる地形である。この勝浦から奴山、大石、須多田生家と呼ばれる部落、村落は古墳郡の連山である。畑山の中に前方後円墳が3基、4基とその姿を見せ、山脈に入れば麓は大、中型古墳郡で、その1つ1つに神社がある。この地を少し注意して巡拝すると「神話の国」え入った様な気持ちになる。神話から現世まで、不思議な気持ちで神社参拝の中に現代を知る事げ出来る土柄である。
    旧社格 無格社
    祭神 神功皇后・管原神
    時期
    特記事項
    出典・参考文献・HP
    関係論文1
    関係論文2
    関係論文3