宗像地域の文化財
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沖ノ島の禁忌 |
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禁忌で守られた島 厳しく守られた禁忌 宗像の人々は、沖ノ島とその周辺海域を神域として禁忌を産み出しました。沖ノ島祭祀の痕跡が手つかずのまま残されたのは、「一木一章一石たりとも持ち出してはならない」、「島で見聞きしたことは一切口外してはならない(不言様)」とする禁忌を厳格に守ってきたことが大きな理由と言えるでしょう。 大島の漁師は、昭和40年(1965)頃まで漁で沖ノ島に寝泊まりすることがありましたが、自宅に帰って妻や子どもにさえ沖ノ島のことを話すことはなかったのです。
禁忌を破った長政公 江戸時代初め、筑前の城主として入城した黒田長政は、どこからか沖ノ島にお宝があるという話を聞き、神職や僧侶に取りに行くよう命じたのですが、恐れ多いということで断られ、当時いた畏敬の念をもたないバテレンに取りに行かせました。持ち帰ったお宝を福岡城の蔵のなかに納めていたところ、光を放ち、建物が揺れるなど大変な祟りがあり、すぐに沖ノ島へ戻させました。 (貝原益軒「筑前国語社縁起 澳津宮御事略」より)
価値を知って守る 宗像市赤間出身の出光興産創業者である出光佐三氏は、故郷の荒廃してしまった宗像神社を立て直すため自ら会長として「宗像神社復興期盛会」を立ち上げました。はじめ、神社史の編さんから取り掛かりましたが、真に神社の歴史を知るためには沖ノ島の歴史を解明する必要があるとして、昭和29年(1954)から46年(1971)にかけて3次にわたる学術調査が実施され、その結果、世界が認める考古学的な価値が世に知られることとなりました。 日本が高度経済成長期を迎え、玄界灘を行き来する性能のよい船が増え、沖ノ島に避難港が建設されました。この調査は沖ノ島に近づくことが容易となることで祭祀遺跡の盗撮を未然に防ぐことも目的の一つだったとも言われています。 |
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| 図録ページ |
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